生きた一生という作品を遺書にするために
カメラが欲しいです。
FUJIFILMのX-M5。
価格.comでは約14万円。
高い。でも欲しい…。
手に入れるには、私の中にいる財政当局を説得して予算をつけてもらなくては…。
私の中の財政当局よ、わかってくれ…!
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◎そもそもあんた既に高いカメラ持ってるじゃないか。2台もいらないでしょ。
確かに、持っている。NikonのZ6。
ミラーレス一眼レフ。
20万円台だったと思う。高かった…。
しかし、私が最近考えていること、始めたいと思っていること、それらを叶えるにはこのカメラは適していない。
◎最近考えていること、始めたいと思っていることとは?
遺書をつくりたい。
ちなみに言っておくが、死にたいわけではない。少なくとも今は。
人はいつ死ぬのか分からない。それに備える。
というのもあるかもしれないけど、
もっとじっくり時間をかけて作りたい、という思いが大きい。
何年かけて、何十年かけて。(それだけ生きていればだけど)
そして、書きたいわけではなく、つくりたい。
遺書は作品だと思う。人生の集大成。
何をして、何を見て、何を聴いて、何を嗅いで、何を感じて、何を食べた。
それらを遺すのだ。
このまま死ねば、私は何も遺せない。
苦労して、孤独な荒野を歩いているのだ。
せめて記憶と記録を遺させてほしい。
誰に宛てるでもない、ただこの世に遺すだけのもの。
わたしのいた世界が、このインターネットの大海に沈む数GBになればいい。
死後更新されずいつかサーバーによって消されるかもしれない。
また、将来的にはプリンターを購入して(予算つけてね)、実際に写真用紙として遺しても、誰にも見られずに廃棄されるかもしれない。
それでも良いと思う。
わたしが遺した世界が廃棄物になればいい。
わたしが遺した世界を処分するのに、誰かが手間をやけ。
これがわたしのできる、死後に遺せる唯一の痕跡であり、死後に残せる唯一の波紋。
◎書ではなくなぜ写真なのか。
写真が私ができる表現方法で最も鮮明に遺すことが出来るから。
もちろん言葉の偉大さを知っている。
しかし、写真はその時の記憶や感情を閉じ込めることが出来る。
振り返る時に、思い起こされるその時の景色から、その地点から歩いてきた距離を知りたい。
ここまで書いて気付いたのだが、遺すためのものをつくりたいのと同時に、振り返った時に記憶が鮮やかであってほしいというのもあるようだ。



▲これはかなり大昔に、当時付き合っていた彼女と江ノ島で『写るんです』を使って撮り合いをした写真たち。謎解きウォークラリーをしながら歩きまくった記憶。デジタル一眼レフを持って行ってたのに、全部バッテリーが無くなってて、めちゃくちゃ落ち込んで、コンビニに寄って写るんですをお互いで買った記憶。
◎今取り組んでいる撮影行為は遺書にならないのか。
今取り組んでいる撮影行為は、アートだと思っている。
その時の感情や記憶を呼び起こすものではなく、とことん美を追求するもの。
もちろんその時の思いが強ければ、当時の感情や記憶が呼び起こされるものもあるが、基本的にはアートに片寄っている。
具体的には山や海、川、原野でアート作品を作り込むときはZ6を、何でもない日常や山などでみた景色を遺す作品を作りたいときはX-M5を使うことになるだろう。
◎なぜZ6で遺せない?
現実的な話に戻る。Z6は一眼レフに比べると軽いとは言え、日常持ち歩きするには重くて大きい。
そして比較的高価であり、持ち歩くのは故障などのリスクが伴う。
もちろんX-M5も安くはなく同様のリスクはあるが、コンパクトサイズではあるので、鞄にしまいやすく、粗雑な扱いをしなければ壊れることはないだろう。
ただ懸念があるとすれば、使用できる環境条件が0〜40℃であり、雪山では使用できないこと、酷暑の環境下では使用できないことがあるが、それはある程度仕方ないものとして飲み込むとする。
◎なぜX-M5?
確かに、コンパクトかつこれより安いカメラはいくらでもある。
でもFUJIFILM機にはフィルムシミュレーションという他社にはない大きな特徴がある。
それはその名の通り、フィルムのような質感を表現できるもので、昔からフィルム機と向き合ってきたFUJIFILMだからこそ実現できる機能であろう。
私はどちらかというと高画素、高画質で遺すというより、情緒的でローファイ感のある作品で遺したい。現代で言うエモいってやつ。
その表現を実現するためにはFUJIFILM機が最適であるということだ。
他のメーカーの機種であっても、その後のレタッチでフィルムのような質感で仕上げられるが、レタッチはアート作品であるZ6のレタッチでお腹いっぱい。レタッチは疲れるのだ。
やはり撮って出しで作品になるFUJIFILM機が最適である。

▲これは一眼レフで、レタッチでフィルムっぽく仕上げた写真。今思えばイメージ先行すぎてめちゃくちゃ。笑
これも思い入れが強く、失恋?から徐々に立ち直ってきつつある時に撮ったもの。
写真撮れないほど沼ってたので、久しぶりに写真を撮ることができて、楽しかった。
なお、これも大昔。
ただ、FUJIFILM機のコンパクトデジタルカメラはX-M5だけではない。中古市場を見ると僅少ではあるものの型落ちの中古品もある。
しかしそれらは生産から10年以上経っているものであり、長く使うにはX-M5が良いだろう。
安物買いは銭失いだよ。
ちなみに、X-M5は動画も情緒的にシネマチックに撮ることが出来るので、今のところはVlogを撮る予定はないが、そんな遺し方もできる。
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どうでしょう。我が財政当局さん。
これは予算をつけざるを得ないのでは?
これは、もはやこの厳しい現代社会で生き伸びるある種の生存戦略です。
渡る世間は鬼ばかり?
暑い。灼熱。
そんな昼下がりにたまたま流した
くぐりの『おバカな怪獣』が
夏をメロウにしてくれるようで
心地が良かったです。
特に二番の歌詞が、フフッとなるような幸せ具合でお気に入り。
おすすめしたいメロウ体験。
先日、ライブハウスに行きました。
そこにあったのは臨場、混沌、白熱、その他諸々で、それらから多くの刺激を受けて、様々な思考回路を抜け、ショート寸前になるくらいの感動を受けました。
予定されていた演目が全て終わり、フロアに明かりが灯されると、空気が一気に緩み、元のざわめきが戻ります。
ぽつぽつと1人で来ている人はいるものの、多くは2人以上の複数人で来場していて、グッズの列に並ぶ者、ドリンクの列に並ぶ者、ただフロアで会話をする者、それぞれ散り散りに、思い思いの終演を楽しんでいるようでした。
私はグッズの列に並び、あらかじめ決めていた欲しかったものを買い、売り場にさっきのバンドメンバーがいたので、簡単な御礼と労いの言葉をかけ、そそくさとライブハウスを後にしました。
その帰路は決して短くはなく、ただひたすら寡黙に俯いて帰っていると、心の中をスッと冷たい風が吹き抜けました。
例えば、ひとりで河原にいると、遠い対岸に若者たちが騒いでいる。川幅は広く、水流も強いので、あちら側へは決して行けない。ただ、ずっと楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
そんな景色が脳裏を掠め、『ずいぶん遠いところに来てしまったな』と呟いて、なおひとり夜道を歩き続けました。
感動は、孤独であることを思い出させるものなのかと思いもしたけど、もしかするとそうでなくて、寂しさを誤魔化すために着た何重もの鎧を脱がせるものなのかもしれないと思い、もしそうなら、本当はずっと私は…と思うと怖くなって、考えるのをやめました。
こういうとき、よく頭の中に浮かぶイメージがあります。
人それぞれに、その人だけの人生のエレベーターがあって、そこには階数ボタンがたくさん並んでいる。
でも、一部の階にしか止まれない。たとえば、皆が楽しくゲームをしている階があって、そのボタンを押しても、私だけはその階には止まれない。
人それぞれ、選ぶことができる人生は限られている。決して、何でもは選べない。
このことを考えたのはもう10年以上も前のことだけど、その時は、私が選べる階でも、きっと見方を変えれば、独りでも楽しくて幸福になれる階があるはず、決して、多くの人から愛される裕福な人生の高層階が全てではないと考えた結果、何物にも代え難い趣味を見つけて、ただ自らの感覚を自らで満たし、小さな幸福を拾っていく人生の階を見つけたのでした。
そうして今に至り、完全無敵なものとして私の独りの世界が完成されたのです。
誰もが自分の世界が最強最高だと思うだろうけど、おそらく私が感じる、私の世界への自尊心は人並みのものではありません。
世の潮流に流されず、私がひとりでいろんな体験を通して、純粋に好きになれるものだけを選び抜いた、私の最強最高で無敵な孤高の世界。
独りで幸福に生きるための、誰にも奪えない立入禁止の世界。
それをこれからも築き上げていくのです。
さて、ところが。
先日、一冊の本を読了しました。
古内一絵さんの『花舞う里』
主人公の少年が引っ越した先は過疎地域だったが、その地域には700年にも渡る伝統の祭りがあった。少年にはなかなか消えない過去の傷があったが、その伝統に関わることで成長し、再生をはかっていくという物語。
古内一絵さんの書くお話は、基本的に事実に基づいていて、この話も愛知県の奥三河に伝わる花まつりがモチーフになっています。
様々な鬼が登場するのがこの祭の最大の特徴ですが、この祭の面白いところは、どの鬼も神聖なものとして扱われているところです。
『鬼様』と丁寧に敬称までつけて。
古来から鬼は、畏れや穢れの象徴、異者として扱われてきました。
私たち人間の生命や暮らしを守るために、鬼を退治する、よくある構図。
そんな存在とされている鬼を神聖なものとして扱う。
それは、鬼は人間が持ち得ない大いなる力を持っていて、その祭を通して、鬼から強大なパワーを授けられ、無病息災や五穀豊穣を叶えてもらえるとして崇められていることに由来しています。
そしてこの祭の背景として重要なことが、この祭は他の地域の者(奈良・吉野の修験者たち)から伝えられたものということで、元々この地に住む者からすると、祭りを伝えた者こそが異者であり、鬼であったということ。
そんな祭がいまやその地域の大切な伝統になっています。
異なるものは取り込みたくないし認めたくない。
普通に生きていれば、それは至極真っ当な心理だと思います。
何故ならこれまで自分が紡いだ歴史を何より大切に思うから。
しかし、その歴史は純粋に自分だけで培ったものではありません。
歴史を辿れば、その隣には誰かがいた時があり、その誰かの教えや影響のもとにそれはあります。
それを認め、異なるものを受け入れ、共生し、この先の未来を紡いでいくこと。
このお話はとある地方の伝統が綴られているようであり、それと同時に真に生きる本来の人間の姿としても読むことができ、胸に深く染み入る話でした。
そして、自身に立ち返るとどうだろうか。
大衆文化を否定し、他物を認めず、信じたいものだけを信じる排他的世界。
無敵は妄目であり、孤高は強がり。
(私は"もうもく"は盲目ではなく、妄目と書きたい人です。そっちの方が本来の意味に近しい気がする)
妄目は悪いことか、最近ずっと自問自答している事だけど、何度じっくり考えても、別に悪いことではないと思います。
ただ、揺らいだ。
揺らいだってだけで、ただそれだけだけど。
分からなくなってからが人生の真髄ならば、私はその入り口に立とうとしているのかもしれない。
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拝啓、いつかの君へ
君が踏み出した右足の先は脆く崩れ
身体はバランスを失った
それから落下するまでは一瞬のうちで
ゴム人形の如く、崖の凹凸に打ち跳ねながら
凄い速さで落ちていく
身体の中の砕ける音と破れる感覚
やがて数百メートル直下の谷間に打ち捨てられ
君の嫌いな赤色が一瞬のうちで
壊れた身体を染め上げて熱になる
そして呼吸は絶えだえに、
遠くなる意識のなかで、
君は何を考えていますか
君は何を悔いていますか
見上げる空は何色ですか
恋をしている
モノ消費とコト消費という言葉がある。
モノ消費とは、『商品やサービスを所有することに価値を見出すこと』で、コト消費とは『商品やサービスを通して得られる体験や経験に価値を見出すこと』。
所有か、それとも体験や経験か。
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最近になって、写真に対して向き合い方が変わってきたように思う。
以前は、
狙いの景色が撮れるか、撮れないか。
評価が得られるか、得られないか。
そんな勝負の世界に趣味があって
その時々の結果に一喜一憂する。
勝った時は幸福感に満たされ
負けた時は無力感に襲われる。
今思えば、何をそこまでって感じだけど、たかが趣味、されど趣味。
たとえ勝った先に何もなくても、自らが納得できるまで、とことん突き詰めるのが私のやり方だった。
もちろん今でも趣味がとても大事であることに変わりなく、撮影は一応本気で挑む。
撮影地情報はあらゆる媒体で調べ、時にはネットだけでなく現地での聞き取りや仕事で得られた情報も活用する。
気象情報もあらゆる手段で仕入れて、分析する。
むしろその辺りに関しては今の方がしっかりやってるような気がする。
大きく違うのは、
何に価値を置くようになったか。
納得できる作品を作ること。
価値はそこにあった。
しかし今では、現場で得られる感覚に価値を見出している。
木々の蒸れた匂い、森特有の湿度、小鳥のさえずりや風で葉が擦れ合う音、光を透過した葉が魅せるプラネタリウムのような輝き。
これらの感覚すべて尊くて、いつも甘い夢見心地に誘ってくれる。
そして得られる感覚は、その時の現場だけじゃない。
道中の退屈な移動時間を楽しいものにさせてくれる大好きな音楽も、ふと立ち寄った食事処の美味しい定食も、汗をたくさん流した後の温泉も、すべて私の感覚を満たしてくれる。
価値は、作り上げる成果物より
作り上げるその過程にあって
その過程で得られる
感覚をもっと大事にする必要がある。
確かそんな事を考えたのは
好きなアーティストのいつかのライブ帰り。
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ライブで得られる感覚はまず日常では得られない。
非日常の中に、高揚と感動と混乱と。
しかし、心をオーバーフローするほどのこれらたくさんの類の感覚も、すぐに消費されてしまう。
五感を通じ、脳で処理をし、シナプスが繋がり合って得られた感覚も次なる情報や刺激に上書きされて過去のものになる。
たとえ、それに後続する情報や刺激がなくても、少なくとも一分一秒の時間の経過によって、その感覚は過去のものになる。
過去に流れた感覚は記憶になる。
しかし残念ながら記憶は、かたちを変える。
風化したり、美化されたりする。
それもとても容易く、
コントロールできない深いところで。
つまり、感覚はその時感じたままを保てないのだ。
こんなに全身全霊で感じ抜いた感覚なのに
身体に残ってくれないなんて、悔しすぎる。
携帯片手に食べる片手間ファストフードの方が
よっぽど栄養として募り、血肉になる。
(脂肪になりやがる怒)
悔しい。
悔しいけど、だからこそ何度も執拗にその地に赴く。
それがライブハウスだったり、山だったり。
そして、その日に考えている事や環境次第で、その都度感じ方が変わる。決してこれまでと同じ感覚は全くなく、まるで雲みたいに、常にかたちを変えて、同じかたちにはならないもの。
感覚は、そのような刹那的で唯一無二性の中にあるから、絶えず出会いたくなり執拗に求めにいくのだ。
写真を撮り続けられる理由、山を登る理由、毎度同じアーティストのライブを観に行く理由は、そこにある。
私は感覚に恋をしている。
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最初の写真の話に戻ると、作り上げる作品(モノ)ではなく、その過程にある(コト)に価値を置くようになってから、精神衛生的に良い効果が生まれた。
例えばあまり良いものが撮れなくても、落ち込まなくなった。
また、例えば期待以下の評価であっても、落ち込まなくなった。
写真を撮ることは、現場へ向かう高揚感、撮影に集中する没入感、自然に身を置く爽快感、そして温かいお風呂と食事で得られる安心感。
さらには、帰宅してからレタッチをして作品になっていく高揚感など、こんなにたくさん感覚を満たしてくれるものに溢れていた。
高揚に始まり高揚で終わる、こんな良い趣味他にあるだろうか。
(きっと出会ってないだけで沢山あるだろうけど)
今度は何を感じることができるのだろうか。
ワクワクを隠しきれないでいる。
落ち込むことは悪いこと?
土曜の晩は落ち込んでしまった。
その日の夕方、積雪の鳥取砂丘で想定外の土砂降りの雨にやられたのもあるかもしれない。(いや、ない)
写真のこと。
先日、Instagramにポストした作品への反応があまり良くなくて。
これがおれの自信作だ〜〜!と思ってポストしたんだけど、あれ????って感じに、いまいちな反応。
とはいえ、もう僕は知ってる。
ヤツ(Instagram)には謎のアルゴリズムがあって、作品の良し悪し関係なく、いいねがついたりつかなかったりすることを。もう振り回されないぞ。
とは思いながらも、それにしても少ない反応。
これはさすがにInstagramのアルゴリズムの問題として看過することはできないぞ、と考えに耽た。
土砂降り喰らった後の鳥取ぽかぽか温泉で。
【努力しない努力をする】
突然ですが、今年の抱負は『努力しない努力をする』なんです。
一見何を言ってるかわからない抱負だけど、去年一年を振り返って無駄な努力があったな、と思い返したところから始まります。
誰も求めてないのに変なところに拘ったり、無理に提供しようとしたり。
また、何かを遂行するために頑張って頑張りすぎてしまったり。
それらの努力に対して何らかの報酬があればいい。労りや感謝などでもあればいい。
でもその努力が誰にも見えない場所で行われていれば、何もなくない?
それを全て受け入れたうえで自分でやりたい事だからと思って実行する努力なら良いと思うけど、少しでも見返りを求めようとするならやめた方がいい。
という持論に基づいて、今年の抱負は『努力しない努力をする』になりました。
フラットな視点で、一歩引いて見て、心からやりたいと思ったことや、"正しく"求められた時にだけ提供するだとか、そんな風でいようと思って今年一年を過ごそうと思っているところでした。
【審美眼の乖離】
さて、本題。
今回、落ち込んだ要因は『期待をしたが、期待以上に反応がなかった』ということに尽きると思うのですが、これってもしかして[努力していたつもりだったのでは?]との考えにまず至りました。
前段で書いたように、努力に見合った報酬がなくて落ち込んでしまったのかな、と。
しかしこれを撮ったのはもう1年以上前。確かに過酷な環境ではあったけど、その撮影に要した努力はもう既に忘れてしまっています。
また、データを見返して、最近改めて再現像をしたというのもあるけど、別にそこまで手を焼いて現像したわけでもない。
よって努力が空振りになって落ち込んだ説はなさそう。
次に浮かんできたのは[世間一般と自分の審美眼に乖離が生じているのでは?]との考え。
これは実際問題あるかもしれない。
特に、自分の作品だと、愛着が沸いてしまって贔屓目で見てしまうというのはある。イケア効果というらしい。(自分で組み立てた家具には既成品以上に愛着が湧いてしまうことから名付けられた)
そう思うと、確かに先日ポストした作品を思い返すと、あそこが悪かったかも、もっとこうした方が良かったかも、と思えてきて、素直に反省をしました。
ここで一連の悩みは解決したかのように思えたはずなんだけど、まだ温泉に入ったばかりで十分に温まってないから、まだまだ思考に耽ります…。
【落ち込むことは悪いこと?】
そもそも、だ。
[期待をするのが間違いではないのか?]
努力しないのと一緒で、変に期待を込めてしまうのも良くないのでは?
との考えですね。
そして、期待→落ち込みまでに至るフェーズとその対策を考えてみました。
①期待しない
②期待はするが、想定を下回った時、その結果を受け入れようとしない。(他責的思考)
③期待はするが、想定を下回った時、その結果を受け入れ、冷静に分析をする。しかし、落ち込まない。(自責的思考+人工的な帰着)
④期待はするが、想定を下回った時、その結果を受け入れ、冷静に分析をする。そして、落ち込む。(自責的思考+自然的な帰着)
まず、①の『期待しない。』
これができれば無敵ですよね。何に置いても。
だけど、出来たものが良いものと思えるなら、多少の期待は絶対に付いてくるものではないのかな。
よく小説では、はなから期待なんてしていなくてなんか全部どうでもいい、みたいな登場人物がいるけど、普通に無理じゃない?
認められたいし、評価されたいし、良く思われたいし、人間ってそういう生き物だから、期待しないなんてことはフィクションであって幻想なんだろうなと思います。
ということで、①はボツ。
次に②の『 期待はするが、想定を下回った時、その結果を受け入れようとしない。 (他責的思考)』
だめですね。いわば、環境のせいにするってやつ。今回で言うと、Instagramのアルゴリズムのせいだとして解決を図ってしまうことですね。
確かにそういう場合もあるけど、全てその思考でしてしまうと、しっかりした分析ができなくて、改善を図られない。故に、成長しない。
なので、②もボツ。
次に③の『 期待はするが、想定を下回った時、その結果を受け入れ、冷静に分析をする。しかし、落ち込まない。 (自責的思考+人工的な帰着)』
まず、人工的な帰着って意味わかんないですね。
やっぱり普通にいれば落ち込むと思うので、そこに対して何らかのアプローチで落ち込まないように、人工的に落ち込み曲線に手を加えて上昇に持っていこうとすることを一言で表してみました。
これができれば理想。しかしなかなかそうはいかんのが現状。
自然状態が"落ち込む"なので、そこにはそれなりの人工的な反発力が必要。
それは自分へのご褒美(ご褒美?)とか物理的なアプローチとか?
もう落ち込まない落ち込まないと首を横に振って違うことを考えたり楽しいことを考えたり?
でも実際これまで幾度となくそんな場面に遭遇して、人工的な上昇を図ろうとしたことはたくさんあるけど、30年生きてきて、それで上昇できたことはなかった気がする。
絶対結局は戻るんです。ネガティブ人間を舐められては困るぞ。
なので③も理想ではあるものの現実的でないとして、半ば⚪︎寄りのボツ。
最後の④ 『期待はするが、想定を下回った時、その結果を受け入れ、冷静に分析をする。そして、落ち込む。』
まず、これを選択肢に出すことができた自分の発想を褒めたい。
落ち込みたくないから考えてるのに、結局落ち込む、て!
要はもう自然に任せるってことですね。
確かに、落ち込むのはそんなに悪いことではない。何か悪影響があるとすれば、落ち込みが前に出過ぎて、今やるべきことを怠ったり、新たなチャンスを逃したりすること。
そこだけに注意を払えば、あとはもう落ち込んでしまえばいい。どうせ明日には忘れているだろうし。
もしそれでも落ち込みが長いようなら、③のような人工的なアプローチも必要かもしれない。
でも生活しているうえで起きる落ち込みの事象は大体そこまで深刻なものではなくて、時間が洗い流してくれることが多い。
③のようにまた変な努力をするよりかは自然に任せる。それがいい。
ということで、ここまでなが〜く考えて、落ち込むときは落ち込むという話で帰着しました。
悪いものには蓋をする、という表現があるけども本当にそれが悪いものかちゃんと見極めないといけないということですね。
このようにだらだらと考えてしまったがために、無事にのぼせてしまいました。
倒れるかと思った…。
〜おまけに〜
この後、自分の期待は置いといて、他者からの期待に応えられなかったことについて考えてしまうことに。
本当は応えたかったはずなのにあの人の期待に応えられなかったこと、とか、あの人はもう誰かに期待をすることをやめてしまっただろうか。などと。
罪に罪を塗り重ねるとはこういうことだなと思い、まだまだダークサイドは続くのでした。笑
ホームランバッターになりたい。
2023年年明けからずっと考えていたことがあった。それはドーナッツのこと。
自分では頑張っているつもりなのに、その努力に見合った結果が出ない。
それをドーナッツに例えてみた。
ドーナッツの生地を焼こうとして燃えている火は肝心の生地じゃなくて、ドーナッツの穴に向けられている。だからどれだけ火を燃やそうが、一向にドーナッツは出来上がらないというように。
そんなことを思ったのはいつかの朝、ミスタードーナツを食べていた時だった。
そんなふうだったけど、2月に入って、ついこないだ、ようやくドーナッツが少し焼けた気がした。
とある企画の依頼だった。その依頼に対し、長い時間をかけてずっと準備してきた。かなり労力も費やした。だから、企画を終えたとき、嬉しい言葉をかけられて、とても報われた気がした。
そう、気がした。気がしただけだった。
実は思うほど影響が与えられていなかったことに後から気付いた。
でもこれは流石に仕方ないことだと正当化した。次頑張ればいいと、前を向こうともした。
それでいいはずだったんだけど、つい今日、また気付いてしまった。
『ダメだ、また空振ってる』
そう呟いたのは、これまた別の依頼に対し、原稿を作っていた時のこと。
(すみません、ここから例えがドーナッツから野球の空振りに変わります、ややこしいな!)
言葉の熱量がすごくて、一見すると響きそうな文章だけど、客観的にみたら、こりゃただの痛いやつで引かれるだけだな、と。
そして『ダメだ、また空振ってる』の呟きに至る。
今思えば、前の依頼もそうだし、趣味の写真もそうだし、仕事もそうだし、何もかも全部空振りしている。
必死に必死に結果出そうとすればするほど、力が入って無様に空振りしている。
そして思った。
もしかすると、前の依頼を終えて得られた充実感は、強く強く振り抜いて、本当は空振りしてるのに振り抜いたその疲労感を充実感のように感じていただけなんじゃないか、と。
さあ、どうしたものか。
どうしたら、バットにボールが当たるようになるのか。全く分からない。
ここは毒されたインターネット脳、困ったら検索する。『空振り なぜ』で調べてみる。
すると出てきたのは『ラケットにボールが当たらないのはボールの軸を読めてないから』
卓球の解説サイトだった。
『違う!!そうじゃない!!!』と思ったんだけど、いや、待て、実はこれ言い得て妙では?
つまりこういうことだ。相手のことを考えずに自分が正解だと言わんばかりに思いのまま、半ば自己満足的に、バットを振ってる。
すると、自分はこれだ!!と渾身の一振りをしているつもりが相手は、いや〜そうじゃなくて…と全然響かなくて、そうして努力と結果の乖離が生まれてくるわけだ。
見当違いの検索結果から、空振りしないためには、相手が望んでいることをしっかり見極めて、その望みに対し、どんなアプローチをしてジャストミートさせるのかが大事なのか、と気付きを得たのだ。
でも、まだ腑に落ちてない自分がいた。
相手の望み通りにしか動けないのはダサくないか?そこに自分の意思はないのか?という考えが覗き込んできたからだ。
これだ。空振りする理由。
相手の望みを常に超えたい。
その予想の斜め上を行きたい。
相手の望みを捉えて放つ安打より豪快なホームランが打ちたい。
いつだってホームランを狙ってた。
こんな変な人生だから、ホームランを打たなければ意味がない、そんな強迫観念に駆られていた。
だから写真だって、平凡を嫌って、誰もいない場所誰も撮らない場所を目指した。
前の依頼もそうだ、そんなところ気にしてどうする?と思うようなところにも拘った。
ホームランバッターになりたかった。
ヒーローになりたかった。
でも待て、冷静になってホームランバッターをみてみろ。
どんなボールでも我武者羅にバットを振っているか?
いや違う、見極めている。自分の苦手なコースはうまく交わしてファールにしたり、時には見逃したりして。そして自分が得意なコースが来れば、いざ来たと言わんばかりにバットを振り抜く。ボールは宙高く飛んでいき、観客席へと。
何でも100%が正義じゃないんだ。
ちゃんと見極めて、抜く時は抜く、かわすときはかわす。
写真だって、いつもいつもホームラン狙いに行くのじゃなくて、無理だと思えば、撮りに行かないことを選ぶべきなんだ。家でも、ホームランを打つためにできることはある。
話は変わるが、今日、実は読んでいる本で面白いなと思う一文かあった。黒澤いづみさんの『私の中にいる』という小説。
その一文を要約すると
『人はよく変わりたいと言う。前向きな言葉でやる気があって良いなあと思うけど、そこには強い自己否定感情がある気がする。まず変わりたいと思うのなら、今の自分がどんなふうか知らなければ変われない。だから自分のことを知ることは大切だと思う』との一文だった。
これは過去の強いトラウマから引き起こした解離性同一性障害に悩む少女に対し、支援施設の寮の方からかけられた台詞で、この後、少女は自分の過去と向き合おうとするけど、それはとてもとても辛くて思い出したくない酷い過去ばかりで、嘔吐したり幻聴したりで、変わるのは楽なことではないと話は続いていく。
そうか、人はこんなに辛くてしんどい過程を経らないと変わることができないんだ、と思った。
話を戻す。
ホームランバッターになりたい変わりたいなら、まずは今の自分と向き合えということ。
それが今日できた気がする、まだこれは一歩目でしかないんだろうけど。
向き合うたって、どこまで掘り下げたら良いんだろう、深く深く掘り続けて、たぶんもうこれ以上掘るのは無理だって層に行き当たるだろう。
その時、僕はどう思うのか、ホームランバッターになることを諦めるのか。
それは分からない。
そもそもそこまで掘らないで、今日の気づきだけでホームランを打てるようになるかもしれない。
未来のことは分からない。
とりあえず今はホームランバッターになりたい。
だから、向き合う。自分と自分の過去と。
それだけは絶対に妥協しない。
これが僕の生き方だ。
遺す
死にたい夜には何か書きたくなってしまうのはなぜなのでしょうか。
書を遺したいとか、そんな意味があるのでしょうか。
何はともあれ、まだ眠れそうにないので勢いのまま。
.
写真を撮ることを、やめた。
最後に撮りに行ったのは11月の終わりの頃。
あれから3ヶ月が経とうとしている。
3ヶ月のうちに様々な心境の変化を経て、写真を撮りたいと思うようになった。
.
11月下旬、よく冷えた夜だった。
家から下道で2時間くらいの山に行って、車中泊をしてから明け方に雲海を撮ろうと思ってたけど、その日はあえなく撃沈した。
そのまま帰るのももったいなくて近くの山に寄って紅葉を撮ったけど、朝方にも関わらず思ったより人が多くて、大した写真が撮れなかった。それにSDカードが謎のエラーを起こして32GBのはずなのに20枚くらいしか撮れずで、その日は結局沈んだ気持ちのまま帰路についた。
それからは人の写真をたまに撮ることはあっても、前のように風景写真を撮ることがなくなった。
それは、ただ冬だからかもしれない。
冬に映える風景写真は雪降る風景でそれを撮りたいけど、冬タイヤを装着していないから諦めざるを得ない。ただ、それだけのことかもしれない。
でも、写真に向き合う前までの姿勢と今とでは明らかな乖離を認めざるを得ないのが正直なところ。
撮る目的が分からないのだ。
誰にも認められない求められない写真を撮り続ける目的が分からない。
たしかに、写真を撮ることは楽しいことだった。
でもその楽しさは他に取って代わることができて、写真でないといけない理由はない。
現に、この間に色々あって自分にとっての幸福は他に取って代わられた。
今まで僕と写真撮影を繋ぎ止めるものが、あまりにも儚くて脆いものだったんだ。
自分の撮る写真が、世間的に認められるものであれば、求められるものであれば何か変わったのかもしれない。
でもそんなタラレバは無意味なものだと思う。
自分は誰かに受け入れられたことがなかった。
精神を解放せずに閉ざしたままだから当たり前のこと。
そんな人間が大衆の理解を得られる作品なんて産むことができるはずがない。それができるのは余程の天才だけだ。
だから自分の作品は自分にしか良さが分からなかった。
ときどき、作品を褒めてもらえることがある。
だけど申し訳ないことに、他人が自分を褒める言葉はまったく信じることができない。
本心で言ってくれているのかもしれないけど、自分の作品が世間の立ち位置ではかなり下位の方にいるのを知っているので、そんな世間に生きる人から褒められても、どうしても受け止めることができない。
僕にとって認められるという基準はコンテスト入賞とかSNSでの"いいね"が大量につくだとかフィーチャーアカウントから多くのフィーチャーを受けるだとか、そんなことでしかない。
悲しいものの見方だと思われるかもしれないけど、言葉は飾ることができてしまう。飾りの度を越して、嘘をつくことができてしまう。でも数字は嘘をつかない。数字は無慈悲に客観的事実を突きつける。
そんな数字に認められたかった。
でもダメだった。構図は学んだ、高いパソコンを買ってレタッチを極めた、いろんな撮影地に行って最高の絶景を求めた。
それでもダメだった。
そうしているうちにも、いろんな人がフィーチャーされていく。構図は大したものでもない、機材には金をかけていない(と思われる)、早朝や深夜でなく日中に片手間に撮ったような写真だった。
そんな写真たちをみて、完全に折れてしまった。
もう撮りにいけない。
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そうして日々を重ね、新たな趣味に没頭していった頃だった。
カーオーディオで流れた曲。
それは星や朝焼けを撮りに行く時によく聴いた曲だった。
その曲自体本当に好きな曲だということもあるけど、その時ばかりは写真を撮りに行く道中の高揚感などを思い出したことによって、涙が流れた。
不意打ちだった。
撮りに行きたい。
一人で夜明け前の誰もいない高速道路をかっ飛ばして、高揚したい。
静かな朝がもたらす絶景に、叫びたい気持ちを堪えて無心でシャッターを切りたい。
ダメな写真が多いけどこの写真はいいかもしれない、とか、全然ダメだった〜、とか、完全に大勝利した、だとかで一喜一憂したい。
あの瞬間たちこそが自分の人生の一部だった。
撮りたい、撮ってみたい。
でも、腰が上がらない。恐怖すら感じる。
だって、そんな希望を手にしたところで、肝心の目的が分からないから。
撮る楽しみを感じることを目的とすればいいだけの話だけど、そんな甘いものでは腰をあげるエネルギーにならない。
何かもっと希望のある計画がないと動けない。
そこにまた新たな光が差し込んでビジョンが見えた時、きっと一歩を踏み出すことが出来るはず。
まだ長いトンネルの途中だけど、僕はまだ信じている。大衆に受け入れられない自分にしか出来ないことがあること。
生きていたいとか死にたいとかくだらないことばっか考えてしまう幼稚な頭なりに、試行錯誤して考える日々を繰り返す。何かが産まれそうな気がするのは気のせいか。
Hakubiが好きな理由。
Hakubi…京都発スリーピースロックバンド。
過去に5枚のe.p.をリリースしていて、最近では"結e.p."をリリース。収録曲の"22"のMVではボーカル片桐さんが初顔出しをするなど大きな話題になった。
Hakubiはどちらかというとネガティブな印象を与えることが多い。
先日KANSAI LOVERSというフェスで、Hakubiのグッズを買おうと列に並んでいたら、後ろから『Hakubiを普段から聴くと病んでしまうから、逆に病んだ時に聴くな〜。私傷に塩を塗りたいタイプだから、病んだ時にHakubi聴いて余計に病みたい。笑』と話す声が聞こえてきた。
わかる。わかるぞ。傷に塩を塗りたい気持ち。
多分それはきっと、心の中の蟠りや悲しみ苦しみ寂しさなどのネガティブな気持ちを代理して声や音にしてもらっていることに安心するからだと思う。"人に悩みを打ち明けて共感してもらえればホッとすること"と同じ仕組みなんだと思う。
自分も昔からよく塩を塗ってきた。
高校の頃、精神が不安定な時にはSyrup16gを聴いた、THE NOVEMBERSを聴いた、plentyを聴いた。
Syrup16gは生きることに自暴自棄になっているようで、THE NOVEMBERS(初期)は世を操るものを恨んでいるようで、plentyは弱い人間の弱音のようで。代弁してくれているようで、よく聴いた。
一方、Hakubiだって、"だから『死にたい』って呟いてみる"(午前4時、SNS)、"クラクションひとつ鳴らされただけで死にたくなったんだ"(サーチライト)など自殺願望が表現されていたり、自己肯定感の無さや人生においての迷いなどが描写されていたり、ポジティブのポの文字もないほどネガティブに思う。
でもHakubiには従来のバンドとは少し違うところがあると思う。
Hakubiには、作詞作曲をする片桐さんの弱さがただ吐き出されているだけではなくて、その弱さに対する葛藤そしてなんとか対峙していく強い意志が表現されているのだ。
"治らない猫背で歩いていく"(Dark.)、"叫んでも痛むだけで増えていく傷も 消えないこの傷も 変わらない今も いつか私を照らすだろう"(17)、"負けるつもりはないからさ自分らしく生きろよ"(ハジマリ)などなど。
決意に溢れた曲を挙げるとキリがない。
そして僕の推測に過ぎないのだが、このような音楽をつくる作業は自分の精神を擦り減らして曲にしているようなもので、とてつもない心労だと思う。
自分の弱さと真摯に向き合い、その弱さと決意を言葉にし、机に並べ、さらにはそれらを音に組み立てていく。
自分の弱さと向き合うなんて楽しいはずがない。苦しさでしかない。そしてそれら大体がモヤ〜とした霧の状態なのにそれらをわざわざまた言語化する。
考えるだけで目が眩む。放り出したくなる。
最新曲"22"ではこのような歌詞があった。
"こんな苦しいなら選ばなきゃよかったのかな"
これを聴いた瞬間、片桐さんの日々の辛さが手に取るように分かるようで、胸が苦しくなった。それでも最後にはこれからも歌うと決意が示されている。
ぼくは弱い人間だ。
何にも出来ないし何者にもなれない、さらには何をしたいのか何が好きなのか何を求めてるのか何になりたいのかすら分からない。
そんなことに長い間、蓋をして生きてきた。
そしてHakubiに出会った。
自分の弱さに真っ正面から懸命に向き合う音楽を知った。
そして自分も一度、己の弱さと向き合いたいと思った。
結局こうやって生きようとかそんな決意は出せずままだけど、抗うことや向き合うことに意味があるのかな、なんて思う。
もうあと数年経てば30になってしまうけど、生きるためにもがいている大人がたまにはこうやっていてもいいんじゃないかな、なんて思う。
そんなことを思ったきっかけは何者でもない、Hakubiの音楽だ。
自分の生き方を教えてくれた。
これが僕のHakubiが好きな理由。