ホームランバッターになりたい。
2023年年明けからずっと考えていたことがあった。それはドーナッツのこと。
自分では頑張っているつもりなのに、その努力に見合った結果が出ない。
それをドーナッツに例えてみた。
ドーナッツの生地を焼こうとして燃えている火は肝心の生地じゃなくて、ドーナッツの穴に向けられている。だからどれだけ火を燃やそうが、一向にドーナッツは出来上がらないというように。
そんなことを思ったのはいつかの朝、ミスタードーナツを食べていた時だった。
そんなふうだったけど、2月に入って、ついこないだ、ようやくドーナッツが少し焼けた気がした。
とある企画の依頼だった。その依頼に対し、長い時間をかけてずっと準備してきた。かなり労力も費やした。だから、企画を終えたとき、嬉しい言葉をかけられて、とても報われた気がした。
そう、気がした。気がしただけだった。
実は思うほど影響が与えられていなかったことに後から気付いた。
でもこれは流石に仕方ないことだと正当化した。次頑張ればいいと、前を向こうともした。
それでいいはずだったんだけど、つい今日、また気付いてしまった。
『ダメだ、また空振ってる』
そう呟いたのは、これまた別の依頼に対し、原稿を作っていた時のこと。
(すみません、ここから例えがドーナッツから野球の空振りに変わります、ややこしいな!)
言葉の熱量がすごくて、一見すると響きそうな文章だけど、客観的にみたら、こりゃただの痛いやつで引かれるだけだな、と。
そして『ダメだ、また空振ってる』の呟きに至る。
今思えば、前の依頼もそうだし、趣味の写真もそうだし、仕事もそうだし、何もかも全部空振りしている。
必死に必死に結果出そうとすればするほど、力が入って無様に空振りしている。
そして思った。
もしかすると、前の依頼を終えて得られた充実感は、強く強く振り抜いて、本当は空振りしてるのに振り抜いたその疲労感を充実感のように感じていただけなんじゃないか、と。
さあ、どうしたものか。
どうしたら、バットにボールが当たるようになるのか。全く分からない。
ここは毒されたインターネット脳、困ったら検索する。『空振り なぜ』で調べてみる。
すると出てきたのは『ラケットにボールが当たらないのはボールの軸を読めてないから』
卓球の解説サイトだった。
『違う!!そうじゃない!!!』と思ったんだけど、いや、待て、実はこれ言い得て妙では?
つまりこういうことだ。相手のことを考えずに自分が正解だと言わんばかりに思いのまま、半ば自己満足的に、バットを振ってる。
すると、自分はこれだ!!と渾身の一振りをしているつもりが相手は、いや〜そうじゃなくて…と全然響かなくて、そうして努力と結果の乖離が生まれてくるわけだ。
見当違いの検索結果から、空振りしないためには、相手が望んでいることをしっかり見極めて、その望みに対し、どんなアプローチをしてジャストミートさせるのかが大事なのか、と気付きを得たのだ。
でも、まだ腑に落ちてない自分がいた。
相手の望み通りにしか動けないのはダサくないか?そこに自分の意思はないのか?という考えが覗き込んできたからだ。
これだ。空振りする理由。
相手の望みを常に超えたい。
その予想の斜め上を行きたい。
相手の望みを捉えて放つ安打より豪快なホームランが打ちたい。
いつだってホームランを狙ってた。
こんな変な人生だから、ホームランを打たなければ意味がない、そんな強迫観念に駆られていた。
だから写真だって、平凡を嫌って、誰もいない場所誰も撮らない場所を目指した。
前の依頼もそうだ、そんなところ気にしてどうする?と思うようなところにも拘った。
ホームランバッターになりたかった。
ヒーローになりたかった。
でも待て、冷静になってホームランバッターをみてみろ。
どんなボールでも我武者羅にバットを振っているか?
いや違う、見極めている。自分の苦手なコースはうまく交わしてファールにしたり、時には見逃したりして。そして自分が得意なコースが来れば、いざ来たと言わんばかりにバットを振り抜く。ボールは宙高く飛んでいき、観客席へと。
何でも100%が正義じゃないんだ。
ちゃんと見極めて、抜く時は抜く、かわすときはかわす。
写真だって、いつもいつもホームラン狙いに行くのじゃなくて、無理だと思えば、撮りに行かないことを選ぶべきなんだ。家でも、ホームランを打つためにできることはある。
話は変わるが、今日、実は読んでいる本で面白いなと思う一文かあった。黒澤いづみさんの『私の中にいる』という小説。
その一文を要約すると
『人はよく変わりたいと言う。前向きな言葉でやる気があって良いなあと思うけど、そこには強い自己否定感情がある気がする。まず変わりたいと思うのなら、今の自分がどんなふうか知らなければ変われない。だから自分のことを知ることは大切だと思う』との一文だった。
これは過去の強いトラウマから引き起こした解離性同一性障害に悩む少女に対し、支援施設の寮の方からかけられた台詞で、この後、少女は自分の過去と向き合おうとするけど、それはとてもとても辛くて思い出したくない酷い過去ばかりで、嘔吐したり幻聴したりで、変わるのは楽なことではないと話は続いていく。
そうか、人はこんなに辛くてしんどい過程を経らないと変わることができないんだ、と思った。
話を戻す。
ホームランバッターになりたい変わりたいなら、まずは今の自分と向き合えということ。
それが今日できた気がする、まだこれは一歩目でしかないんだろうけど。
向き合うたって、どこまで掘り下げたら良いんだろう、深く深く掘り続けて、たぶんもうこれ以上掘るのは無理だって層に行き当たるだろう。
その時、僕はどう思うのか、ホームランバッターになることを諦めるのか。
それは分からない。
そもそもそこまで掘らないで、今日の気づきだけでホームランを打てるようになるかもしれない。
未来のことは分からない。
とりあえず今はホームランバッターになりたい。
だから、向き合う。自分と自分の過去と。
それだけは絶対に妥協しない。
これが僕の生き方だ。