遺す
死にたい夜には何か書きたくなってしまうのはなぜなのでしょうか。
書を遺したいとか、そんな意味があるのでしょうか。
何はともあれ、まだ眠れそうにないので勢いのまま。
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写真を撮ることを、やめた。
最後に撮りに行ったのは11月の終わりの頃。
あれから3ヶ月が経とうとしている。
3ヶ月のうちに様々な心境の変化を経て、写真を撮りたいと思うようになった。
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11月下旬、よく冷えた夜だった。
家から下道で2時間くらいの山に行って、車中泊をしてから明け方に雲海を撮ろうと思ってたけど、その日はあえなく撃沈した。
そのまま帰るのももったいなくて近くの山に寄って紅葉を撮ったけど、朝方にも関わらず思ったより人が多くて、大した写真が撮れなかった。それにSDカードが謎のエラーを起こして32GBのはずなのに20枚くらいしか撮れずで、その日は結局沈んだ気持ちのまま帰路についた。
それからは人の写真をたまに撮ることはあっても、前のように風景写真を撮ることがなくなった。
それは、ただ冬だからかもしれない。
冬に映える風景写真は雪降る風景でそれを撮りたいけど、冬タイヤを装着していないから諦めざるを得ない。ただ、それだけのことかもしれない。
でも、写真に向き合う前までの姿勢と今とでは明らかな乖離を認めざるを得ないのが正直なところ。
撮る目的が分からないのだ。
誰にも認められない求められない写真を撮り続ける目的が分からない。
たしかに、写真を撮ることは楽しいことだった。
でもその楽しさは他に取って代わることができて、写真でないといけない理由はない。
現に、この間に色々あって自分にとっての幸福は他に取って代わられた。
今まで僕と写真撮影を繋ぎ止めるものが、あまりにも儚くて脆いものだったんだ。
自分の撮る写真が、世間的に認められるものであれば、求められるものであれば何か変わったのかもしれない。
でもそんなタラレバは無意味なものだと思う。
自分は誰かに受け入れられたことがなかった。
精神を解放せずに閉ざしたままだから当たり前のこと。
そんな人間が大衆の理解を得られる作品なんて産むことができるはずがない。それができるのは余程の天才だけだ。
だから自分の作品は自分にしか良さが分からなかった。
ときどき、作品を褒めてもらえることがある。
だけど申し訳ないことに、他人が自分を褒める言葉はまったく信じることができない。
本心で言ってくれているのかもしれないけど、自分の作品が世間の立ち位置ではかなり下位の方にいるのを知っているので、そんな世間に生きる人から褒められても、どうしても受け止めることができない。
僕にとって認められるという基準はコンテスト入賞とかSNSでの"いいね"が大量につくだとかフィーチャーアカウントから多くのフィーチャーを受けるだとか、そんなことでしかない。
悲しいものの見方だと思われるかもしれないけど、言葉は飾ることができてしまう。飾りの度を越して、嘘をつくことができてしまう。でも数字は嘘をつかない。数字は無慈悲に客観的事実を突きつける。
そんな数字に認められたかった。
でもダメだった。構図は学んだ、高いパソコンを買ってレタッチを極めた、いろんな撮影地に行って最高の絶景を求めた。
それでもダメだった。
そうしているうちにも、いろんな人がフィーチャーされていく。構図は大したものでもない、機材には金をかけていない(と思われる)、早朝や深夜でなく日中に片手間に撮ったような写真だった。
そんな写真たちをみて、完全に折れてしまった。
もう撮りにいけない。
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そうして日々を重ね、新たな趣味に没頭していった頃だった。
カーオーディオで流れた曲。
それは星や朝焼けを撮りに行く時によく聴いた曲だった。
その曲自体本当に好きな曲だということもあるけど、その時ばかりは写真を撮りに行く道中の高揚感などを思い出したことによって、涙が流れた。
不意打ちだった。
撮りに行きたい。
一人で夜明け前の誰もいない高速道路をかっ飛ばして、高揚したい。
静かな朝がもたらす絶景に、叫びたい気持ちを堪えて無心でシャッターを切りたい。
ダメな写真が多いけどこの写真はいいかもしれない、とか、全然ダメだった〜、とか、完全に大勝利した、だとかで一喜一憂したい。
あの瞬間たちこそが自分の人生の一部だった。
撮りたい、撮ってみたい。
でも、腰が上がらない。恐怖すら感じる。
だって、そんな希望を手にしたところで、肝心の目的が分からないから。
撮る楽しみを感じることを目的とすればいいだけの話だけど、そんな甘いものでは腰をあげるエネルギーにならない。
何かもっと希望のある計画がないと動けない。
そこにまた新たな光が差し込んでビジョンが見えた時、きっと一歩を踏み出すことが出来るはず。
まだ長いトンネルの途中だけど、僕はまだ信じている。大衆に受け入れられない自分にしか出来ないことがあること。
生きていたいとか死にたいとかくだらないことばっか考えてしまう幼稚な頭なりに、試行錯誤して考える日々を繰り返す。何かが産まれそうな気がするのは気のせいか。